昭和54年9月24日 朝の御理解
御神訓 「子を産むは我力で産むとは思ふな皆大祖神の恵む處ぞ」 お道の信心を頂いて此所のところの会得。ここのところが体得出来たら素晴らしいてすね。これは妊産婦そして子供を産むと言う事だけではないのです。皆親神の恵むところぞと。これは子供を産むと言う事だけではない。子供が授かると言う事も産むと言う事も皆神様のおかげを以てしなければ出来ない事であります。
それを自分の力のように思たりします。私はそこんところの言うなら悟りと言うか。いわゆる喝破ね。もう一事が万事にその通りなのですからね。ここに悟りが開けた時に昨日の古屋修行生から手紙がまいっております。あの文章の中にあるような事になってくるのぢゃないでしょうかね。
一節を読んでみましょうかね。十七日の一時間目は教義の授業でした。今御理解の解釈について講義があっています。これは棚橋先生と書いてある。その時御理解第一節についての解釈で黒板に大坪総一朗氏の大真理の喝破、本当の本当と書かれた教典感話の事を紹介されました。
合楽の事が授業中に出て来るとやはり嬉しいですと、言うような事が中にございますね。大真理の喝破です。もう一事が万事にこの通りです。そんならじいっとしとっても良いか。まあじいっとしとっても良いと言うわけでしょうけども。ならこれはお産をした方達が実感しておられる事でしょうけれども、さあ頑張んなさい、頑張んなさいと言われて頑張ったんぢゃなくて、もうそれこそ胎内から気張らずにおれない。頑張らずにはおれない、何ものかが頂けるんだと思います。
その働きに言わばおかげが頂ける。それを信心のない人達は私が頑張った。私の力でとこう言う。だからそこには有り難いと言うものも何にも生まれてこない。本当にそこに神様、そう言う働きがあっておるのですから。その働きを私共が実感するかしないかと言う事が信心の決めてですね。
昨日は思いがけない人達が、昨日は霊祭に御礼参拝してきました。内田耕治さんの広島に行っとります。あちらの奥さんの里の親戚方がもう熱がこのまま続いたら、もう命が難しいと言われて、あわててもう晩遅うに電話がかかってまいりました。
昨日本人が御礼に出て来ました。もうそれこそ涙ながらに御礼参拝でした。医者が危ぶむ程しの事がもうお取次を頂いた時点から熱が下がり出した。おかげで退院のおかげを頂いたと言うて昨日御礼に出て来ました。もう一つは福岡の後藤さん、野中さんの娘さんが嫁行っておるところ、船乗りさんです。もう行きがけからもうお願いしてお取次を頂いとられたが、先日から帰られるのに今度は船ではなくて、あちらはヨ-ロッパの方から飛行機で帰ると言うお届けがあっておった。ところが二日たっても三日たっても着かんから大変心配しておったところが、丁度夕べ。昨日の晩ですたいね。 私があの霊様の御祈念をさして頂こうとしておる時でしたから。田主丸の共励会に野中さんが出て来とって、帰って来てのお届けでございましたが。昨日はその本人が御礼に出て来ましたが、途中で飛行機に故障が起きた。そしてフィリピンでまあ緊急不時着と言うわけですか、致しました。もうそれこそ一同の者がそれこそハラハラして思わず金光様を唱えたと言うて、昨日は言っておられましたが、なかなか真面目な方なんです。
おかげを頂いてまあ日にちは、三日ほど遅れましたけども、無事言うなら生還ですね。生きて帰って来られたと言う御礼のお届けに昨日霊祭に参っておられました。ですからお取次を頂いてお願いをしておったからおかげを頂いたと言うと。おかげの実感が非常に強いわけですね。
おかげで安産のおかげを頂いた。おかげで生還のおかげを頂いた。おかげでない命を頂いたと言うて有り難いと思うのですけれども、その辺のところがね。お互い信心を頂いておりましてもおかげを実感しきらない。実感しておっても非常にうすい。その有り難いと言う事が日に日に、言うならばその実感にひたって生活さして頂く事が信心です。
本当に今日も一日おかげの中にお繰り合わせを頂いた。そこにです。なら信心の言わば手立てと申しますかね。お取次を頂いておかげを受けた事だけが、おかげではないね。人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自ずから湧くとね。自ずから湧くところの人力と言うものは、実感が神様のおかげの実感です。
いやあもう自分が例えば一生懸命頑張っとるといたしましょうか。仕事をしておると、自分が頑張っとるとぢゃないなあ。これは神様のおかげを頂いてこれは御用そして頂いとるなと言う実感が募って来るんです。
先日どなたでしたか、身体が大変きつかったお届けをされた。ところがその日だけはもうひとっもきつくなかった。もう、面白いように仕事が出来たと言うて。どなたかお届けをされた方がありましたがね。そのおかげの実感なんです。
自分が頑張りよるとぢゃないな、神様が頑張らせて下さりよるとだなとね。ならさあ子供を産むのに頑張れ頑張れと言われて頑張ったと言うのぢゃなくてです。そこに言うなら神の働き、そして私共の精進努力と言うものとが相まってそこに産み成されるおかげ。
私は今、お道の信心で、頂く信心から産み成す信心と言う事が言われるが、そう言う信心が分かってね。私は産まれて来るおかげを本当の意味においての産み成す信心だと思うですね。 二、三日前でした。あれは誰からぢゃったか、川上さんぢゃったか、頂かれたのは古屋さんです。毎日電話がかかって来るけども。私にはあの、それは言われませんでしたが、やっぱあんまり良い事ぢゃないと思われたからでしょう。日田の綾部さんが亡くなられたお夢を頂いたがどう言う事でしょうかと言うて。確か川上さんか誰かに電話がかかって来た。それをここでお届けをされた。
私がもう直感した。お互いがね、日々またはその事に取り組む時だけでも良いから、自分と言う者を殺していかにゃいかんです。自分と言うものを空しうしていかないけんです。それが積もり積もって徳ともなり、積もり積もって神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと言う実感がいよいよ募ってくるんですね。
綾部さんがあの婦人大会の委員長を勤める事になった。それから幾日かして、とてもいろんな問題に直面して来る度に、とても私ぢゃこげなでけんとこう思われた。丁度その思うて参られたその朝の御理解がね。あの井上さんと高松和子先生が頂いたと言うね。本気で願わねばならないと言う事。
言うならば、朝起きの目覚ましのおかげを頂きたいと言う事だけでも、どうぞお願いしますだけぢゃなくて、本気で願わなければならない。本気で願わして頂いたら共励殿の白木の大黒様が二つに割れたかのようなおいさみを頂いた。成程本気で願わなきゃならんと言うお届けを聞いた。
御結界と言う、合楽の御結界はそれこそ生きてござるね。それこそ畳敷の立派な大便所に井上さんが行っとられるけども。よい綺麗な着物を着ておられる。それをこうやって御結界がこうやって動いておる。だからその着物が汚れそうにあるから井上さんが便所の中で思われた。これは、ここの便所にはまって、ここの便所は使わなければ使われんと思うた。
着物なんかは、もうよい着物なんかはかなぐり捨てて、そしてはまってこの便所は使わなければと思うたと言うのです。お便所と言う事は御結界ね。ただお願いしますぢゃいかん。もうはまってね、一つの大きな願いを立てる。その大きな願いをはまってお取次を頂かしてもらう。どうでもと言う一念を燃やして、言うならお取次を願う。はまると言う事が大事。本気で願うと言う事が大事と言う御理解をその朝頂いた。
そして本気ではまった、本気でお取次を頂かれた。おかげでね。自分が勤めると言う時にはとても自分ぢゃ勤まらんと思ったけれども。これはどうでもおかげを頂かなきゃならんと言う心とね。その気になればおかげが頂けると言う確信が満ちてきたと言うお届けでした。そこには自分の力と言うものを空しうしたわけですね。
綾部さんがそう言う事に直面する時だけでも自分と言う者を殺していくと言う事。日に日に生きるが信心とはそう言う事なんだ。それを日に日にそれが自分を空しうしていく。言うなら神様を御中心に申し上げた生き方が出来るように段々なってくると言う事が信心なんです。そしてそこから今日も一日よう頑張らせて頂いたあ。ところがおかげで疲れもしとらん。いや本当に疲れたけども、その後味の有り難いと言う事。本当に御礼を申し上げねばおられない。 それこそ人力を捨てて見切りをつけて神様にすがってそこから湧いてくる、自ずから湧いてくる、人力でもってする時におかげの実感と言うものが感じられる。とても自分の力で産み成す事の出来る事ぢゃない。神様におかげを頂かなければ出来ないと実感の伴のうてくる。その実感が伴なうと言う生活が信心生活なんです。
無味乾燥と申しますね。私は今日御神前であの土饅頭のように土をしてあるとが、もうヒビがいっぱい土に入っているところを頂いた。丁度あの雨が降らないと、あの田んぼがこうヒビが入るでしょうがね。あんなふうにこう土饅頭のごたっとのこうあるに、ヒビがいっぱい。言うならカサカサになっておると言うところを頂いた。 私共の心がですね。言うなら神様のおかげと言ったようなものを感じずにね。または分からずにそれを自分の力で一つやってやろうとか頑張ろうと言うとる時。そう言う心が起こって来る時には、自分の心に信心のおしめりと言うものがです、ない時。自分の心がカサカサに無味乾燥の心の状態の時と思うて間違いないです。
私がと言う、我が出た時には、昨日もそう言う人がありました。退っとったら見えて、それこそまくし立てて。私までそれに引っ込むごたる感じで話されて、もう本当に神様を離したら、もう本当におしまいだなと。まあ黙ってほうほう、そうのと聞いとったけれども。兎に角自分がやって自分の力で、そしてこうやってともうその見事な計画と計算を私に示される。
何の為、ああ言う事を言われたか分からん。私にも協力しろと言われる意味ぢゃったかも知れんけれども。私はそれを聞いとったけれども。そう言う事でやって、おかげの頂ける筈は絶対ないです。 本当に自ずと生まれて来るところの力ね。言うなら自分と言う者を捨て切って、人力を捨て切ってね。そして神力にすがる。そこから自ずと湧いて来る心の状態。もうそれはしっとりとした心の状態です。そしてなら、その事を一日なら一日締切ってみるとです。本当にあれもおかげであった。これもおかげであった。本当にまあここまでようお使い回しを頂いたとこう言う事になるんです。
我力で頑張ると、それを俺が頑張った。俺がやったと言う事になって、それこそあたり散らかそごつなってくるね。それこそ神力にすがって本当に自ずと湧いた来る力で、頑張らせて頂いた。頑張ると言う事においても同じ事。けれども答はどう言う事かと言うと、本当に神様のおかげでなからなきゃ、とても出来る事ではない。神様のおかげを頂かなければ産み成す事の出来る事ではない。言うなら事が悟れてくるね。
だから時々ね。本当はもう日々がそうぢゃなかにゃいけんけども、言うなら我情我欲を離れると我身は神徳の中に生かされてありと言うしっとりとした。言うなら中に住まわして頂く事が出来る。だから我情我欲を取ると言う事がね。自分と言うものを空しうする事なんですね。
その為にはです。それこそ綾部さんぢゃないですけども本気ではまってお取次を頂いて初めて、やれおかげが頂けると言う事になるのぢゃないでしょうか。我力ではとてもなれんと思うた事も、そこに確信が湧いてくる。そう言う日々を私共は頂きたいね。心の中が、信心が抜けてそれこそ土が乾き切ってヒビが入るような。そこにどう言う、なら種を蒔いても良い芽は出ませんし、芽を切らんのですね。
しっとりとした土饅頭と言う事はね。土の信心をさしてもらう。そこから万寿のおかげを頂くね。万の言うなら寿のおかげをを頂く為には、この土そのものがしっとりと肥料がほどこされてあると言う事と同時にね。そこに土もおしめり、しめりけと言うしっとりとしたものが、なからなきゃいけない。
そのしっとりとした心と言うのが有り難いと言う心なんです。その有り難いと言う心で願わしてもらう。そこから湧いてくる。自ずと湧いてくる力ね。それを私はね、神力。人力に見切りをつけて神力にすがれ人力自ずから湧く。その自ずから湧いてくるそのはずみ。その催しと言うものを受けて御用をさしてもらう。そこから成程私が生んだのぢゃないね。生み成させて、神様のおかげで生み成す事が出来たと言うおかげがそこにあるわけですね。
だからこれは圭奈子さんの手紙ぢゃないですけれども、中にありましたようにです。これはね大真理の喝破です。金光様の御信心する者はみんなここんところの悟り、ここの悟りを開いて家業の行に取り組むならばね。日々がもう本当に有り難い勿体ないね。しっとりとした。言うならば心の状態にね。それこそ限りないおかげの世界と言うものが開けて来るでしょう。
その為にはまず、自分の我情を取る、我欲を取る。自分の我を取る、我力を取る。私が産むのぢゃない。神様のおかげでと言う思いにならせて頂きますと自ずからはずみが生まれてくる。その自ずから生まれてくるそのはずみに、その言うならばおかげである。
そう言うおかげが生み成される、おかげだと思いますね。
「どうぞ」